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倉橋由美子『よもつひらさか往還』講談社 2002.3.20
なんともいえない摩訶不思議なお話の短編連作集。
倉橋由美子の晩年の仕事で、〈カクテルシリーズ〉として書かれた作品。
ハンサムで教養がある慧君が、九鬼さんのバーで、九鬼さんの作ったカクテルを飲むとなんともいえない
甘美な世界へ連れていかれる。そこで、数々の不思議な美女と交わり、恍惚の時を過ごす。
色っぽいお話にぞくぞく。
九鬼さんの上品かつサディスティックなキャラもいい。
慧君の流されるままに美女にもてあそばれる様がなんともユーモラス。
私が好きなお話は、「麻姑(まこ)」さんの「手」のお話(「落陽原に登る」)
玩具箱に入ったバラバラの手足のパーツを九鬼さんが組み立てると
「中国系の美少女」に早変わり。魅力的な爪をもち、それで慧君をひっかき、快楽へと導いていく。
そう、「麻姑の手(まこのて)」=「孫の手」の化身だったのです。
ちなみに、仏教大学四条センターにてこの短編集の中から
「雪洞桃源」の講義を聞きにいったのですが、九鬼さんは、
中国語で発音すると酒鬼とも解釈できるとのこと。
なるほど、九鬼さんの最後の姿にも注目。
九鬼さんのカクテルの色とりどりの描写も美しく、
読んでいるとこちらまで芳しい豊かな香りが伝わってきそう。
くらくらしながら本を閉じ、なんともいえないクールな倉橋由美子の幻想世界に
いつまでも身をひたしたいと思いました。
莫言(吉田富夫訳) 『鳴蛙』(河出書房新社 2011.5.25)
2月の終わりごろだったかな。仏教大学四条センターにて、翻訳者・吉田先生の莫言文学に関する授業があったため、
急遽図書館で借りて、約一週間で読んだ本です。
469頁の、非常に分厚い本ですが、中身は大変面白いです!
面白いという表現が妥当かどうかわかりませんが、中国の「一人っ子政策」にまつわるある村でのお話。
ここに登場する人物たちのキャラが濃すぎて面白いです。
主人公の「わし」=オタマジャクシ、「わし」の後妻の「チビらいおん」、
ロシアの血が混じっていて得も言われぬ迫力の持ち主陳鼻、身長80センチの美少女王胆、
王胆の兄の純粋すぎる詩人(?!)王肝、強烈な「わし」の叔母、ずる賢くて怪しい商売人ユエンサイ、
一人っ子政策に情熱を注ぐ、逞しい産婦人科医の叔母、
叔母と結婚する神秘的な存在の泥人形師ハアダアショウ。
彼らの描写のなんと生き生きとしたことでしょう!
内容の深刻さとは裏腹に、ユーモアあふれる文体に、時折くすくす笑いながら読み進めました。
でも、一人っ子政策の渦中で第二子を妊娠したために命を落とす、ある女性と、
美少女王胆の最後の悲劇には、思わず涙が出た。あんなに魅力的な王胆の最後。
-筏に横たわり、下半身は血みどろの水の中です。短い身体で、腹が高く隆起した姿は、
怒りと恐怖の中にいるイルカのようでした。(245)
王胆は、その死に際に、女の子の陳耳を産み落とすのです。
このくだりには泣いた。
しかし、この二人の妊婦をモーターボートで追っかけまわす、水上での攻防戦の描写力はスピード感満載で、
凄まじいものがありました。王胆の一家は、桃を筏で運ぶ時に、王胆を隠し、川を下っていくのですが、
その途中で叔母たちにつかまります。そのあたりの手に汗握る展開はドキドキしました。
吉田富夫さんの冴えわたる翻訳の力だと思うのですが、女性の語りのしなやかさと可愛らしさが
ほんとに上手く描けています。その分、主題の重さがひしひしと胸に迫ってきます。
そして、人物造形のくっきりさ。(なんか年をとってもいつまでも夢見がちでふわふわしてる王肝と、
どんどん落ちぶれていく陳鼻のキャラが好きでした)人間の持つ不可解さも余すことなく表現されていて、
読み応えありました。こんなに悲惨な話なのに、ラストはある種の爽快感が漂います。
突き抜けた感じとでもいいましょうか。
「わし」の一人称語りで始まるこの物語ですが、後半になるに従い、「わし」の妻となったチビらいおんが、
徐々に自分の主張を繰り広げていきます。その子どもをほしいことを訥々と訴える語りが重なり、
叔母さんの何千人もの子どもを葬ってきてしまった哀しみの語りが重なり、共鳴しあい、反復しあう。
その語りのダイナミズムもすばらしい。
叔母さんが蛙に襲われる幻想に取りつかれるなど、神秘的で美しい描写も随所に挟まれ、
この世とあの世をつなぐものの象徴としての、泥人形で形成されたこども像が、
後半不思議な存在感を表すところなど、非常にテクニカルで楽しめます。
ラストの章では、オタマジャクシが書いた戯曲も収められ(維新派の演劇みたいなちょい前衛的芝居向きの脚本)、
派手な演出が随所にちりばめられた一冊となっています。
ラストの一行のアイロニカルなユーモアさにびっくりしますが、この長大な小説のラストを締めくくるのに
ふさわしい一行だと思います。読んでる最中、読後も何やら強大なパワーが自分の中にみなぎって、
このありあまるエネルギーをどうしようかと思いました。
他の莫言文学も、全て読んでみたい!
【映画】ヤーノシュ・サーシュ『悪童日記』(ドイツ・ハンガリー合作・2013)
やっと、やっと!
待ち望んでいた映画、『悪童日記』京都シネマにて観てきました!!
すばらしかった!おばあちゃん面白い!さいこー!!
凍えて固まりかけているおばあちゃんを、双子がずりずり雪の中を引きずる場面がユーモラス。
あかん、笑ってはいかん、と思いつつ吹き出しそうになりました。
ただ怖いだけのおばあちゃんじゃないことを、このシーンはよく表している。
とてつもなくでっかい身体にとてつもないでっかい愛情と憎悪をつめこんでいる
老婆をピロシュカ・モルナールが熱演!
色々見所満載なんだけど、最初にこのシーンが言いたくて、
ちょっと先走って書いてしまいました。
では、以下感想を。
双子はとにかくすばらしい。あの目。すいこまれそう。
ふたりが寝ていたコンクリで出来てるみたいなベッドもいい。
この中で、時に二人はくっついて、また或る時は絶妙な距離をとって、寝そべる。
そして或る時はしもやけができた手と手をつなぐ。
別々に寝ていても、何か異変を感じると、のっそり起きて、どちらか一方のベッドに移動する。
そのシークエンスがすばらしい。実に動物的な動き。野生の犬みたい。
そして、暗い画面のなかで、ひときわ輝く、眼光の鋭さ。
白目の部分もきらきら真っ白で若さあふれて美しい。
ランプを持って、ノートを照らす場面。おばあちゃんにつめよる場面がいい。
「訓練」の一環で、お母さんの写真を燃やし、鶏を持って、
ぐるぐるとランプといっしょに回る(ダンスする?)一人を
もう一人が壁にもたれてじっと見つめる。なんかその視線が色っぽい。
その後、鶏の身体を撫でたかと思うと、羽根をむしって罵詈雑言を
お互いに言い合うシーンがもうたまらなかった。
ランプの光と目の輝きと鶏の羽根が画面を覆う。圧巻。
靴屋の前で、建物のくぼみにすっぽりと身体をうずめ、
裸足の足をみせて縮こまる双子もよかった。(かわいい!)
とにかく双子から目が離せない。最初は二人とも同じ服を着ている。
その服はどこかおぼっちゃん風だ。とても窮屈そうに着ていた。
しかし、戦争が過熱してゆき、物語がハードな方向へ舵を取るにつれ、
一人は青系の服。もう一人は赤系の服を着る。
青系の服の子はラストで国境を超えるクラウスのほうかな。
赤系の服の子はおばあちゃんちに残るリュカかな。
このあたりで、二人の顔が微妙に違うことに気付く。
青系(クラウス)の子は、どこかお兄さん風で、ちょっと面長な顔立ちで、表情豊か。
赤系(リュカ)の子は、どこか弟っぽくて、あまり感情を面に出さない。
(余談だけど、このリュカの顔立ち、パラジャーノフの『ザクロの色』に
出てくる男の子に似てないですか?)
物語を牽引していくのは、クラウスで、リュカはクラウスの影となり光となり寄り添う。
おばあちゃんの最後を手伝う時、クラウスとリュカがそっと手をつなぐ。
このシーンも示し合わせたわけじゃないのに、ぴたりと息が合ってる。
もう、この二人の「もう一人がいないと生きていけない」状態が実に自然で、
親子の結びつきや恋人たちの結びつきとは異なる、
まさしく「双子」ならではのミステリアスさで通じあってる、
という感が出ていて、お見事としかいいようのない演出と演技。
作中で「美少年」と呼ばれる双子。
最初双子の登場シーンでは、二人の顔はそんなに美しいとは思わなかった。
頬もふっくらしていて、輪郭もぼやけていて、自我が芽生えていない感じだ。
ところが、おばあちゃんちで「メス犬の子」として労働させられ、
残飯をたべさせられているうちに頬はこけ、目はどんどんぎらついていく。
双子は雪の中を、町の中を、家の回りを、森を、転びそうになりながら、
成長途中の身体を持て余すように走る。二人はつねに何か事件を嗅ぎつけ、走る。
その二人の躍動する肉体も、壊れそうなくらいはかなくて、でも強くて野性的・感覚的ですばらしかった。
すばらしいの連発ですみません。
でも、ほんとにすごい双子。
警察で拷問を受けるシーンで二人が一瞬引き離されたときの、
リュカの顔が苦痛にゆがむのも、その後、無事救い出されて車の中で、
一人が一人の肩に顔をよせ、ぼんやりした顔で何かにじっと耐えている表情も奇跡としか言えない。
ミヒャエル・ハネケ監督作品のカメラマン、クリスティアン・ベルガーが撮った映像の数々。
人々の顔のアップが続く、その後に急にスコーンと突き抜けたように、木々だけがざわざわゆれているロングショットが効果的に挿入される。
昼の光と夜の闇、夜の闇できらりときらめく窓からの光・ランプの光のコントラストがまた美しい。
何度も繰り返し見たい。
兎っ子もかわいらしい。原作では、もっと華奢で小柄な子を想像したけど、
映画ではどちらかといえば雄雄しい風貌だった。
そこが粗雑さと妖しさをよく表していて、よかった。もっとこの子のシーンを見たかったな。
鶏小屋で双子と兎っこが心を通い合わすシーンもよかった。
(卵を「あげるよ」とぶっきらぼーに兎っこに投げるシーンがかわいい)
効果音や音楽もずっしりしていてよかった。
2時間弱の映画だったけど、無駄の一切ない演出で最後まで楽しめました。
とにかく双子のジェーマント兄弟の存在感につきる。
ラストで振り返ったときの、クラウスの顔がめちゃかっこよかったです。
見てよかった!
パンフレットも買いました。
双子のインタビューも読みたかったな。
でも、かわいい双子の写真がいっぱい載ってるので満足。
DVDが出たら、購入したいな。
京都シネマではまだもうちょっと上映するみたいです。
もう一回見たいなあ!
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文芸春秋2013.4.13)
別のブログに記載していた書評を転載します。
※以下の感想は、内容に触れていますので、未読の方はご注意下さい。
村上春樹の本を読んでいると、いつも現実世界を過ごすのが難しくなる。
ぼんやりしたり、涙ぐんだり、大笑いしたり。つまりとても情緒不安定になる。
小説世界が現実世界を侵食していくのである。
『ノルウェイの森』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読んだときも、『海辺のカフカ』を読んだときも。
そう、だからとても苦しいのである。私にとって、春樹を読むのは。
それでも春樹が何を書き、どんな物語世界を繰り広げているのか、読まずにはいられない。
今回のこの小説も、まず本屋で冒頭の数行を読んだだけですっとその世界に引き込まれた。
そして、早急に読まなければ、と強い衝動にかられた。「死」というものにとても関心があったから。
読んでいる最中、またあのとてつもない憂鬱と甘美が入り混じったような情緒不安な数週間を過ごした。
つくるが、巡礼していくのと同時進行で、私も過ぎ去った記憶、閉じ込めていたい苦い記憶をこじ開けて、
その傷口をぐりぐり火箸で焼き付けるような、そんな、実際「血が確かにでる」痛みをずっと味わった。
相変わらず、登場人物全ては顔のない人間みたいで、現実味が乏しい。
まるで実体を失ったヒトガタがしゃべっているみたい。
その、不思議な人物たちが幽霊みたいに、ふわふわとこちらの心情に入り込んでは消えていく。
レクサスのショールームに勤めているアオと、塾経営のアカのシーンも、現実味は乏しい。スターバックス、リスト、
トヨタのレクサス、固有名詞のオンパレードにも関わらず。きっと彼らは風景の一部みたいに他者を見ている、
見るしかなくなった。そういう悲しみを抱えて、生きていて、その結果そういうふうにしか人と交わることが
できないのであろうと思ってしまう。
しかし、大事な人や物を失ったことがある人、失いそうな人はこの本のどのページを開いても
胸がきりきり痛むとと同時に、つくるの存在がぴったり心に寄り添ってくれて、癒してくれる。
そういうヒーリング効果絶大の小説でもある。
後半、クロと対峙するシーンは、ハンマースホイの絵画みたいに、時空間が止まったようであった。
(春樹はハンマースホイ、好きだろうか)
灰田はなぜ学校をやめたのか。
6本指のピアニストは。
それらは、ほんとに闇夜にたなびくテールランプみたいに、さあっとすぎさって、もとに戻ってこない。
彼らの行く末は最後まで明かされることはない。
でも、この小説はミステリーではないので、そんなことはまるで関係ないのであろう。
駅をただ創る、という目的のつくる。
さわやかな青年らしいが、ちっともさわやかにみえないつくる。
それでも、このあきれるような執念の巡礼に、ただひれ伏すしかない。
じっとりとしてるのに、あくまで軽やかな文体。
「良いニュースと悪いニュース」のくだりは、読んでいて、体が痛くなってきた。
このひんやりとして人を寄せ付けないような、でもやさしいような物語世界に今回も魅了された。
真綿で首をしめられるような、痛いような気持ちいいような。
ラストシーンは、漱石の『それから』のラストシーンを思い出した。
われわれの世界はかくも優しく八方塞がりなのである。
さて、止まっていた『1Q84』を読もうかな・・
【映画】タルコフスキー『僕の村は戦場だった』(ソ連・1962年)
タルコフスキーの映画を朝からDVD鑑賞。
少年の美しい夢想(戦争のない平和な世界)と現実の荒涼とした風景(戦争)を
詩的かつ暴力的に描いた作品。タルコフスキー30歳のときの作品とのこと。
映画の構成として、夢想と現実が交互に映し出される。
その切り替わりがとても巧みだ。
少年がお母さんと楽しく会話する風景が映ったかと思ったら、
すぐに戦争の暗い映像に切り替わる。夢想⇒現実⇒夢想⇒現実・・・というふうに。
その構成はラストまで続く。
まず主人公の少年(イワン)が、ぞっとするくらい美しい。
映画が始まってすぐにイワンがソビエト兵の若者に、
自陣へ運ばれる。イワンを運ぶときの軍人の手や目がとてもなまめかしい。
まるで情婦か何かを見るような危険な目つき。
鋭くとがった顎とやせこけた肢体とアンニュイな表情。
戦地に送られた救いの女神のようなイワンのルックス。
イワンを取り囲むむさくるしい男たちのなかに、この肢体がひらひらと画面を踊る。
より戦争の恐ろしさが強調される。
途中、料理人として雇われている少女と将校の恋愛エピソードが挿入される。
その少女と将校が、林の白樺が乱立している中で密会する場面がすばらしい。
すっくと天にむかって伸びる白樺の木の枝があまりにまっすぐで。
モノクロームの画面の中で、白樺の白が目に痛いほどくっきりとして、
ここだけが清潔な場所という感じがする。
クライマックスの場面。
沼の中を2人の将校とイワンをのせた小舟がゆっくりと進む。
このあたり、溝口健二の映画みたい。
木々の黒と沼の色の白とのコントラストが美しい。
しかし、木々の影からは、先に殺された見せしめとしての死体が2体のぞいている。
肉体は物化し、鎮座している。
そのそばを宇宙遊泳するかのように小舟がぐるりと進む。
このシーン、禍々しくも美しい。
やがて死体を傍に、イワンの姿はいつしか消える。
そこでまたイワンの幻視。
馬車に美しい少女(妹)とイワンが乗っている。遠のいていく馬車。
荷台からは、林檎が無数に転がる。画面いっぱいに白い丸、丸・・・
馬が数頭やってきてその実のにおいを嗅ぐ。
イワンと妹を乗せた馬車はどこかへ走り去る。
このシーンが一番好きだ。
ラスト。浜辺を走るイワンと妹。
妹のか細い体はいまにも太陽に溶けてしまいそう。
その満面の笑みでめちゃくちゃに手足を動かして走る妹の姿に
生そのものを見てしまい、そのあとの惨劇を思うと
あまりにつらくいとおしい。